どうもサマビーです。
今日も2018年に母と私に起こった話の続きです。
一気に書き進めておりますが、前回の話はこちらからお願いします。
呆気にとられた…主治医
毎回のことで恐れ入りますが、前回までの話を簡単にまとめます。
母が2015年に悪性リンパ腫を発症、抗がん剤治療に入るも断念します。
その後、2年ほど日常生活に戻れたものの、2017年の年末、母は難病を発症してしまい、わずかな期間でボロボロになります。
入院した病院からは「退院してほしい」と言われるなか、私は母に病気の告知をして、東京の駒込病院の緩和ケア科へ転院手続を始めました。
すると、入院していた病院から「連絡をつけたので駒込病院へ転院を」という連絡があり、駒込病院へ向かった…というのが前回までの話です。
さて、駒込病院で案内された病室に入ると、そこは明らかに「一般病棟」でした。
ん…緩和ケアじゃないの?…はじめは検査とかがあるのかな?…と思いましたが、母の下へ主治医が来て、「明日から投薬しますね」と言いだします。
は?…と思ったや否や、母は速攻で「治療はしない」と言い返していました。
主治医の先生は「え!?…」と呆気にとられ、困ったな…話が違う…みたいな感じです。
私はやりやがったな…と思いました。そして急遽、私は別室に促され、打ち合わせが始まります。
話をまとめると、どうも入院していた病院からは「母が治療をする気になったから」という連絡を受けていたようです。
そこで、私はここまでの経緯を説明しました。
すると、先生は少し苦々しい顔をしつつ、すべて把握した…という顔をした気がしました。
憶測ですが「前の病院では無理だから、半ば強引に出された」という事情を察した気がします。同様の事例が過去にもあったのでは、ないでしょうか。
そう考えると、入院していた病院の医療部長による「剛腕転院作戦」だったのかもしれません。
色々な憶測はできますし、色々な思いはあります。
しかし、その後のことも考えると、結果として、これが母にとってベストだったといえます。
ともかく、その打ち合わせの場で、うちとしては「緩和ケア」に入りたい…ということを希望しました。
食事は全くとれない、痛みはある、目は見えない、たまに高熱も出す、そして、どのような症状が出るのかわからない…という母と家に帰った場合、どのように暮らしていけばよいのか、全く想像がつきませんでしたから。
すると先生は、緩和ケア科に状況を説明して、入れるか打診してみること、また、入れることとなった場合、それまでは一般病棟で面倒を見ると言ってくれたんです。
ありがたや…。
ぶっちゃけて言いますとその先生。母が抗がん剤治療を断念した際、母に余計な一言を言ってしまい、母は不信感を持っていました。内容は伏しておきますが…苦笑
ただ、その後2年ほどで人間的に成長したのか…、その時は多くを語らず、良い仕事をしてくれました。感謝です。
その先生と打ち合わせをしたのは、お昼前のことです。
その後、母と私は病室で待機して、この先どうなるのかを…ずっと待っていました。
もし緩和ケアに入れないとなると、治療をしない以上、きっと私と母は、家に帰されることになったのでしょう。
長い待機時間でした。
途中、私は昼食をとりに食堂に向かうと、食堂のテレビでは草津のほうで噴火があったニュースが流れていましたね。「火山かぁ…色々とあるな…」なんて思った記憶があります。
そして、その夕方5時くらいだったかな…緩和ケア科への転院が正式に決まります。
ホッとしましたね…。
母もホッとしたと思います。
私が病院を出た頃には、すっかり夜になっていました。
ボロボロになっていた母と病院を出されるかもしれない…という不安はなくなり、とにかくホッとして帰ることができました。
そして、緩和ケアの空きが出るまでの1週間くらい、一般病棟のほうでお世話になることとなりました。
同じ病院でも、雰囲気がかなり異なりました
その後、母は緩和ケアに移ります。
緩和ケアに移ってまず感じたことは、同じ病院でもかなり雰囲気が異なることでした。
まずフロア全体が静かで、落ち着いています。
患者さんが最後の時間を過ごす場所ですから、様々な配慮がされているのでしょう。病室や設備も綺麗でした。
その差を見て感じたことは、一般病棟は「病と闘う戦場」なんでしょうね。
申し訳ない言い方ではありますが、一般病棟では、医者も看護師さんもどこかピリピリしているというか…。
忙しくて余裕もないのだと思います。まさに戦場です。
その点、緩和ケア科には、静かな時間が流れている感じでした。
お医者さんも看護師さんも、皆さん穏やかで…。
ひょっとすると「そうしなければならない掟」があるのかもしれませんが。
特に母の担当となった看護師さんは、明るくて気が利いて、本当に良い方でした。
私が若くて、妻(or彼女)がいなければ、思わず告ってしまったでしょう。そして、それが成功したら、母が結びつけてくれたんだ…なんて考えたと思います。
ふざけてしまい、申し訳ありません…。
そのくらい良くしてくださった…ということです。「仕事だから…」と思う方もいるでしょうが、母が緩和ケアから退院後、彼女の休みの日に、わざわざ母に会いにきてくれたような人でしたから。
ともかく、緩和ケアの皆様には、本当に感謝しきりです。
母が緩和ケアに移ったのは、2018年1月末でした。
水分以外の食事はとれないので、点滴で栄養をとり、同時に痛み止め(おそらく麻薬的なもの)の機器も設置されました。痛みがある場合、自分でボタンを押すタイプのものです。
その日から、母は緩和ケアの病室にて、静かな時間を過ごすことになります。
その際、母は外の景色を見ることができませんでしたが、割と高層階に病室がありましたので、病室からの眺めも綺麗でした。
ちなみに、母はその後2か月ほど経過した頃、目が見えるようになります。
少し前に「偽膜」の話を書きましたが、眼科の先生が少しずつ丁寧に…偽膜を取り除いていただき、2か月くらいかけて、視力が回復したんです。
それだけでもかなり大きかったです。
例えば、時間を知りたいとき、また、水を飲もうとした際など、目が見えないと不便です。トイレにも1人で行けません。
願わくば、その調子で口腔内も回復すれば…と思いましたが、そこまで願うのは野暮かもしれませんね。未だに回復はしていません。
そんなこんなで、母は緩和ケアでペインコントロール(痛みの緩和)などを受けながら、静かな時間を過ごします。
ただ、転院して1か月が経った頃、ある問題が発生します。
点滴を入れっぱなしだったので、もう皮膚(?)が持たなくなり、それ以上、点滴を打てなくなったのです。
そこで、主治医の先生と私と母で、点滴を入れる管を身体に埋め込むのか、もう点滴はやめるのか(=食事をとれない母は死に向かう)の話し合いが行われます。
その辺の話は、少し長くなりましたので、また続けさせてください。
続きはこちらからお願いします。