こんにちは、こんばんは。
サマビーです。
今日は2020年8月15日(土)。
気がつけばお盆ですねぇ…。
私の住まいは東京の郊外にあるせいか、近所にはいわゆるお爺ちゃんお婆ちゃんが多く住んでいます。
よって、お盆や年末年始は、あちこちのご家庭で親戚が集まるようなんですね。
あちこちのご家庭前に、多くの車が”路駐”されているのを見て「お盆だなぁ…」と気が付きました…笑
さて、昨日に引き続き、先週に息を引き取った母の話を書きます。
前回の話は、下記リンクをご参照ください。
「最後の10分」の重み
前回までを簡単に振り返りますと、7月31日(金)に母が救急搬送され、重度の肺炎と診断された話。
そして、新型コロナ対策のために、病院では面会が禁止されており、母に手紙を書いた話。
しかし、翌日の8月1日(土)に母の容態が危うくなり、また、さらに翌日の8月2日(日)、母が新型コロナに感染していないことが判明したので、代表者1名が10分間だけ、母との面会を許された…というところまで書きました。
そして、その代表者となったのが私です。
平日は仕事がありますし、実家(と病院)の近くには兄と姉が住んでおります。
ですので、平日に入った以降、母に何かがあった場合は、兄か姉が代表者として病院へ行くこととなったのでしょう。
しかし、8月2日の日曜日に面会の許可が出たこともあり、急遽、私が代表で母と面会することになりました。
そして、その時点でのお医者さんの見立てでは、週末まではもたない…という話でした。
実際に母はその週の金曜日、8月7日に息を引きとります。
ともかく、私にしてみれば、直接に母と会える最後のチャンスと考え、病院へ向かいました。
ただ、本音を言えば、気は重かった…。
母に直接お礼とお別れを伝えるチャンスとはいえ、母がどうなっているかのか…具体的な状況がよくわかりません。
苦しそうな、また、死にそうな母を見るのもツラいですし、そのような場合、何を言えばよいのか…。
しかし、これで本当にお別れとなる可能性が高かったので、ちゃんと今までのお礼とお別れしてこよう…と病院へ向かいました。
こういう時はシンプルに考えることにして、私が伝えたいことは「本当にお疲れさまでした」ということと、「今までありがとう」という2点だけ。
これだけは伝えてこよう…と考えましたね。
また、最後に孫たちの声も聞かせたいと思い、電話の前でスタンバイしておくように伝えておきました。
そして、残った時間は手を握っておこう…と。
というのも、母との思い出で、印象に残っていることが1つあります。
私が小学校低学年の頃ですかね。
ある日、なんかお腹が痛いな…と感じていると、そのうち猛烈に痛くなって、大泣きして母に訴えたことがありました。
お腹が痛くなって泣いたのは、その時が最初で最後だと思います。
すぐに病院へ連れていってもらいましたが、痛くて不安で、ずっと泣いていた気がします。
そして、検査後に薬を与えられて、病院のベッドでしばらく休むことになりました。
薬が効いたのでしょう。痛みが和らいでいき、そのまま眠ってしまいます。
どのくらい寝ていたのかわかりません。ただ、帰りは夜だった記憶があります。
で、病院のベッドで目が覚めるとそばに母がいまして、とても安心した記憶があります。
母がずっとベッドのそばにいたのかはわかりませんが、その時のことをよく覚えているんですね。
そんな記憶もあったもので、何ができるわけでもないならば、そばにいて手を握っておこう…と考えたのですね。
もう母が治ることはありませんでしたが、残された時間は母の手を握り、わずかでもその時のお返しをしよう…と考えていました。
そして私は病院へ着き、母との最後の10分間が始まります…。
意外なセリフに嬉しくもあり…
看護師に連れられて病室へ向かうと、座った状態で酸素マスクを付け、うつらうつらしている母がいました。
すごく苦しそう…というわけではありませんでしたが、横になると苦しいのでしょう。
そして、母は完全に弱っており、見た目的にも死が近くにあることを感じました。
考える余裕すらなかったと思いますが、母は何を考えていたのでしょうね…。
正直、脳梗塞で逝った父の時よりも、こんなにズタボロにならないと人って死ねないのか…と思いました…。
あと一生懸命、真面目に生きてきた母でも、こんな目にあうのか…とも。
とにかく私は「大変だったね~苦しかったね~」と語りかけました。
そして、「新型コロナではなかったから。抗生剤も入れてるし、この悪い風邪(本当は肺炎)は治そうね!」と続けます。
もちろん「もう頑張らなくていい」という思いもあります。しかし「じゃぁやめます~」と人は死ねるわけではありません。
良い意味だろうが、悪い意味だろうが、病の苦しみを乗り越えていかねばならないんですね…。
そして私は、今は面会ができないこと、まずはこの風邪(本当は肺炎)を直して、また会おうということ、家族の皆は元気であること…などを伝えました。
声は出せませんが、母はうんうん…と”かぼそく”頷いていましたね。
ただ、「今までお疲れさま」「今まで本当にありがとう」と言うことは躊躇しました。
もう終わりと言っているようなものだからです…。
しかし、これで母と話すことはなくなる、また、完全にズタボロになっている母を見ていたら、自然に涙が流れてきました。
それに、この機会を逃すともう伝えられない…と思ったので…
「万が一の場合のために言うけど…今まで本当にありがとうね。お疲れさまでした。」
とだけ言いました。
あの場面で言ったことが正しかったのかは、わかりません…。
そして、私は携帯を取り出して、息子に電話をかけました。
妻にスタンバイさせていたこともあり、息子は電話に出ると大きな声で…
「ばあば、頑張って! また一緒に遊ぼうね!」とはっきり言ってくれました。
いいぞ…と思いましたね…。
よく息子に「〇〇って言えよ」などと電話に出させると、イヤイヤな感じというか、言わされている感が出ることが多いのですが…今まで1番良かったくらいの出来…。
きっと、よほど妻が言い聞かせていたのでしょう…笑
ともかく、息子の声を聴くと、母の表情が変わって「うん…うん…」と声が出たんです。
このとき思いましたが、幼い子どもの声って、心に届きますね。
何か訴えるものがある…というか…高音だからでしょうかね…笑
そして、母の声を聴いたのは、これが最後でした。
私が最後に聞いた母の声は、私の息子の語りかけに「頷く声」。
これはこれで、よいフィニッシュだったのかな…。
その後は、ただただ母の手を握っていました。
その間、母は目を閉じていました。母の手は冷たかったですね…かわいそうに…。
そして、看護師さんが面会の終わりを告げに来ると、看護師さんが筆談ができると言います。
母に「何か伝えることはある?」と尋ねて、母の手元にあったボードを渡すと、母は文字を書き始めました。
ギリ読めるくらいの乱れた字でしたので、読めるか緊張しましたが…苦笑
内容は「着替えを持ってきて」ということと、普段使っていた「薬をもってきて」という内容。
何だか嬉しかったなぁ…。
おそらくモルヒネも使われていたので、状況がわからなくなっていたのかもしれません。
しかし、おそらく、そうではない。
正確な自分の状態を聞かされていなかったことはあるでしょうが…
母はまだ生きようとしていました。
その時に私は、母はこの風邪(本当は肺炎)は治すつもりだ…と感じました。
私はこの瞬間まで、母とどうお別れするか、何をどうやって伝えるか…ということばかりを考えていました。
しかし、ここで別のスイッチが入ります。
母が生きようとする限り、母の応援をしよう…というスイッチですね。
なお、この直後に書いた話が下記のものです。
もちろん、母の着替えを持ってきてという要請には「了解!」と言い、看護師さんに促されて部屋を出ます。
何度も「じゃあまたね!」と言いながら、何度も母を見ながら部屋を出ました。
私が「またね!」と言うたびに、母は手を上げてくれましたね。
これが母と交わした最後のやり取り。8月2日(日)の話です。
その後、8月7日(金)の早朝に母は亡くなります。
実はその時、私は母のそばで看取ることができました。
少し長くなりましたので、母と面会後の数日間の話は、また続けさせてください。
失礼いたしました。