剛腕部長の転院作戦!? 2度だけ見た母の涙(その7)

身体・健康

どうもサマビーです。
今日も2018年に母と私に起こった話の続きです。

一気に書き進めておりますが、前回の話はこちらからお願いします。

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呆気にとられた…主治医

毎回のことで恐れ入りますが、前回までの話を簡単にまとめます。

母が2015年に悪性リンパ腫を発症、抗がん剤治療に入るも断念します。

その後、2年ほど日常生活に戻れたものの、2017年の年末、母は難病を発症してしまい、わずかな期間でボロボロになります。

入院した病院からは「退院してほしい」と言われるなか、私は母に病気の告知をして、東京の駒込病院の緩和ケア科へ転院手続を始めました。

すると、入院していた病院から「連絡をつけたので駒込病院へ転院を」という連絡があり、駒込病院へ向かった…というのが前回までの話です。


さて、駒込病院で案内された病室に入ると、そこは明らかに「一般病棟いっぱんびょうとうでした。

ん…緩和ケアじゃないの?…はじめは検査とかがあるのかな?…と思いましたが、母の下へ主治医が来て、「明日から投薬しますね」と言いだします。

は?…と思ったや否や、母は速攻で「治療はしない」と言い返していました。

主治医の先生は「え!?…」と呆気にとられ、困ったな…話が違う…みたいな感じです。

私はやりやがったな…と思いました。そして急遽、私は別室に促され、打ち合わせが始まります。

話をまとめると、どうも入院していた病院からは「母が治療をする気になったから」という連絡を受けていたようです。

そこで、私はここまでの経緯を説明しました。

すると、先生は少し苦々しい顔をしつつ、すべて把握した…という顔をした気がしました

憶測ですが「前の病院では無理だから、半ば強引に出された」という事情を察した気がします。同様の事例が過去にもあったのでは、ないでしょうか。

そう考えると、入院していた病院の医療部長による「剛腕転院作戦」だったのかもしれません。

色々な憶測はできますし、色々な思いはあります。

しかし、その後のことも考えると、結果として、これが母にとってベストだったといえます。

ともかく、その打ち合わせの場で、うちとしては「緩和ケア」に入りたい…ということを希望しました。

食事は全くとれない、痛みはある、目は見えない、たまに高熱も出す、そして、どのような症状が出るのかわからない…という母と家に帰った場合、どのように暮らしていけばよいのか、全く想像がつきませんでしたから。

すると先生は、緩和ケア科に状況を説明して、入れるか打診してみること、また、入れることとなった場合、それまでは一般病棟で面倒を見ると言ってくれたんです。

ありがたや…。

ぶっちゃけて言いますとその先生。母が抗がん剤治療を断念した際、母に余計な一言を言ってしまい、母は不信感を持っていました。内容は伏しておきますが…苦笑

ただ、その後2年ほどで人間的に成長したのか…、その時は多くを語らず、良い仕事をしてくれました。感謝です。

その先生と打ち合わせをしたのは、お昼前のことです。

その後、母と私は病室で待機して、この先どうなるのかを…ずっと待っていました。

もし緩和ケアに入れないとなると、治療をしない以上、きっと私と母は、家に帰されることになったのでしょう。

長い待機時間でした。

途中、私は昼食をとりに食堂に向かうと、食堂のテレビでは草津のほうで噴火があったニュースが流れていましたね。「火山かぁ…色々とあるな…」なんて思った記憶があります。

そして、その夕方5時くらいだったかな…緩和ケア科への転院が正式に決まります。

ホッとしましたね…。

母もホッとしたと思います。

私が病院を出た頃には、すっかり夜になっていました。

ボロボロになっていた母と病院を出されるかもしれない…という不安はなくなり、とにかくホッとして帰ることができました。

そして、緩和ケアの空きが出るまでの1週間くらい、一般病棟のほうでお世話になることとなりました。

同じ病院でも、雰囲気がかなり異なりました

その後、母は緩和ケアに移ります。

緩和ケアに移ってまず感じたことは、同じ病院でもかなり雰囲気が異なることでした。

まずフロア全体が静かで、落ち着いています。

患者さんが最後の時間を過ごす場所ですから、様々な配慮がされているのでしょう。病室や設備も綺麗でした。

その差を見て感じたことは、一般病棟は「病と闘う戦場」なんでしょうね。

申し訳ない言い方ではありますが、一般病棟では、医者も看護師さんもどこかピリピリしているというか…。

忙しくて余裕もないのだと思います。まさに戦場です。

その点、緩和ケア科には、静かな時間が流れている感じでした。

お医者さんも看護師さんも、皆さん穏やかで…。

ひょっとすると「そうしなければならない掟」があるのかもしれませんが。

特に母の担当となった看護師さんは、明るくて気が利いて、本当に良い方でした。

私が若くて、妻(or彼女)がいなければ、思わずこくってしまったでしょう。そして、それが成功したら、母が結びつけてくれたんだ…なんて考えたと思います。

ふざけてしまい、申し訳ありません…。

そのくらい良くしてくださった…ということです。「仕事だから…」と思う方もいるでしょうが、母が緩和ケアから退院後、彼女の休みの日に、わざわざ母に会いにきてくれたような人でしたから。

ともかく、緩和ケアの皆様には、本当に感謝しきりです。

母が緩和ケアに移ったのは、2018年1月末でした。

水分以外の食事はとれないので、点滴で栄養をとり、同時に痛み止め(おそらく麻薬的なもの)の機器も設置されました。痛みがある場合、自分でボタンを押すタイプのものです。

その日から、母は緩和ケアの病室にて、静かな時間を過ごすことになります。

その際、母は外の景色を見ることができませんでしたが、割と高層階に病室がありましたので、病室からの眺めも綺麗でした。

ちなみに、母はその後2か月ほど経過した頃、目が見えるようになります。

少し前に「偽膜ぎまく」の話を書きましたが、眼科の先生が少しずつ丁寧に…偽膜を取り除いていただき、2か月くらいかけて、視力が回復したんです。

それだけでもかなり大きかったです。

例えば、時間を知りたいとき、また、水を飲もうとした際など、目が見えないと不便です。トイレにも1人で行けません。

願わくば、その調子で口腔内も回復すれば…と思いましたが、そこまで願うのは野暮かもしれませんね。未だに回復はしていません。

そんなこんなで、母は緩和ケアでペインコントロール(痛みの緩和)などを受けながら、静かな時間を過ごします。

ただ、転院して1か月が経った頃、ある問題が発生します。

点滴を入れっぱなしだったので、もう皮膚(?)が持たなくなり、それ以上、点滴を打てなくなったのです。

そこで、主治医の先生と私と母で、点滴を入れる管を身体に埋め込むのか、もう点滴はやめるのか(=食事をとれない母は死に向かう)の話し合いが行われます。

その辺の話は、少し長くなりましたので、また続けさせてください。

続きはこちらからお願いします。

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