与えられたプレミアム期間 2度だけ見た母の涙(その9)

身体・健康

どうもサマビーです。
長きにわたって継続してきた母の話ですが…

今回を持って一応の完結とさせていただきます。

なお、前回の話は下のものです。

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まぶしかった「母と息子と桜」

前回までの話を簡単にまとめますと、2017年の年末に母に難病が発症し、わずか数日間で食事がとれない状態となります。

また、そこから1週間ほどで全身に発疹(紅斑こうはん)が出て、目も見えない状態に。

その後、半ば強引な形で「緩和ケア」に移りますが、栄養を入れていた点滴が打てなくなり、医師の見立てでは「もう1か月は持たないかな…」という状態になった、という話です。


最後の点滴が抜けてしまったのは、2018年の3月頭でした。

つまり、前回書いた医師とのミーティング(今後をどうするか)の翌日、あっさり抜けてしまいます。

よって、食事のとれない母はペインコントロールを受けつつ、後は自然に衰弱して…という流れがセッティングされました。

桜が咲く頃には、母は死にゆく予定となったのです。


しかし、人の心は不思議なものです。

点滴を打たなくなった後、母は病院で出る流動食をとる努力を始めました。

「本能」が頑張ってみよう…と母を動かしたのでしょうか。

とはいえ、ほんの少しでも固形物は摂取できない状態でしたので、流動食とはいっても、牛乳や病院で出る栄養補助ドリンクくらいです。

たまにプリンやゼリーにチャレンジするくらい。

しかし、そのくらいの時期を境に、母の状態は安定しはじめます。

治っていったわけではありません。

ドスン…ドスン…という音が聞こえるような勢いで進行した症状が、明らかにストップしていました。

そしてある時、仕事で外出したついでに、そのまま直帰の形にさせてもらい、珍しく平日の日中に病院に立ち寄ったときだったと思います。

ふと、母が机の上の「水を手に取る」姿を目にしました。

「よくそこにあると、わかったね」と言うと、

母が「最近、目が見えるようになってきた」と言うのです。

母の目が見えなくなったのは「偽膜ぎまく」という症状のためでしたが、薄く張ってしまった膜の薄皮うすかわ1枚1枚を、2か月ほどの時間をかけて、丁寧に剥がしていくという眼科医の努力により、目が見えるようになってきたのです。

もう感謝しかありません。

目が見えてきたこともあり、母も頑張ろうと思えたのでしょう。

気がつくと、死ぬはずだった3月を超え、4月に入って、病院の敷地内には桜が咲いていました。

そして、その頃の母は、孫つまり私の息子に車いすを押してもらい、病院敷地内の桜を見に行けるくらいに安定していたんです。

とても天気の良い日だったこともありますが…母と幼い息子と一緒に見た桜は、

「桜は」というよりも、その光景は「まぶしかった」です。

「桜が咲くころには…」と言われていた母が、私の息子と桜を見ていました。

実質的な入院期間の制限

現在は基本的に、長期入院ができないことはご存じでしょうか。

詳しいことはわかりませんが、 だいたい長くても「3か月」がリミットのようです。

患者がたくさん控えている…ということも理由でしょうが、病院も入院期間が長くなると利益が出なくなるように設定されているようです。

特に母が入院していた緩和ケアでは、空きが出ることを待っている方もいます。

そこで、2018年4月が終わろうとする頃、状態が安定し始めた母にも退院の話が出ました。

これはやむを得ませんし、とことんお世話になりましたので、何の文句もありません。

というか、感謝しかありません。

その年のGWには、半日のお試し退院が実施され、わずか数時間でしたが母は家に戻りました。

年明けの1月4日に私と家を出てから…以来になります。



家を出る時にはいた父が、その時はもういません。母は父の仏壇を見るのも初めてでした。

母は父の仏壇に手を合わせ、「近いうちに…」といったことを呟いた気がします。


また、それも目的だったのでしょうが、わずか数時間のお試し退院でも、色々と気がつくことがありました。退院に向けて「足りないもの」の確認ということですね。

大きいもので言えば、例えば、リクライニングをするベッドから始まり、流動食を作るミキサーなどなどなど。

また、年明けからずっとベッドで寝ていた母の身体は、相当衰えており、ちょっとした段差も越えられずに、よろけて非常に危ない。

それこそ病院から車で移動、自宅では基本的に座っていて、車で病院へ戻る…という5~6時間の行程だけでも、母は筋肉痛になったようです。

なんせ春には死ぬ見通しでしたから、退院後を見込んだトレーニングなど行っていなかったのです。

これは医師も失敗した~と言っていましたね…笑

その後、10日間ほど緩和ケアでお世話になりましたが、その間は歩行器を使って廊下を歩く訓練等をしていたようです。

そして、2018年5月下旬、母は緩和ケアを退院することとなりました。

平日は仕事をしていない姉が、週末は私と兄が交替で、母の身の回りの手伝いを行うことになります。

ちなみに、上にリンクを貼りましたが…一連の話の「その4」で触れた、家の前の街灯の明かりが灯ったのは、この頃です…笑

その後も細々と色々ありましたが、退院から1年半、母との生活は続いています。

私が涙する母を見たのは、母が抗がん剤をやめたいと言った日、そして、私が本当の病気を告知した日の2度だけです。

そして、きっとこの先、3度目の涙を見ることがあるのでしょう。

でも、ひょっとしたら「ない」のかもしれません。

病を患っていることは変わりありませんし、いつかはお別れがきます。

ただ、プレミアム期間のようにいただいた時間は、大切にしなければならんな…と思いながら過ごしています。

週末の度に実家に出向くのは、なっかなかシンドいですけどなぁ…笑

母に関する話は長くなりましたが、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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